もう35年ぐらい前になるが「BAKU」というバンドを覚えているか?
ぞうきん、ピーターパン——この曲名でピンと来た人間は、間違いなくあの時代を生きていた。
あの頃、原宿のホコ天(歩行者天国)から聴こえてきた、軽快で真っ直ぐな音楽。
あの熱量を、今日は改めて語り直したい。
BAKUとはどんなバンドだったのか
BAKUは1989年、栃木県の高校3年生だった車谷浩司(ギター)と谷口宗一(ボーカル)を中心に結成された、4人組のロックバンドだ。
メンバーは車谷・阿部浩之(ベース)と谷口・加藤英幸(ドラムス)の2つのコンビが合体する形で結成。
当初のバンド名はBATSUで、アマチュアバンドコンテストの会場でBAKUに改名した。ロゴマークは胴体にハートマークが描かれたバク——夢を食べる幻獣だ。このロゴのセンスだけでも、このバンドがただ者じゃないことが分かる。
キャッチフレーズは**「歌える歌」**。難しいことを言わない。
ただひたすら、聴いた人間が一緒に歌える歌を作る——そのシンプルな信念が、10代を中心に爆発的な支持を集めた。
ホコ天からの爆発的な人気
1989年の夏、BAKUは原宿の歩行者天国(ホコ天)に姿を現した。
あの時代のホコ天を知っている人間なら分かるはずだ。土日の午後、原宿表参道に無数のバンドやパフォーマーが集まり、通行人が足を止めてパフォーマンスを見る——あの独特の熱気と自由さ。そこでBAKUは瞬く間に人気を集めた。
10代の素朴な感性に満ちた歌詞と、軽快なビート。難しい技術を見せびらかすのではなく、目の前の人間に「届ける」ことに徹した音楽——同世代の女性を中心に、ホコ天を訪れるたびに人の輪が大きくなっていった。
同年12月には早くもインディーズからミニアルバム『ぼくたちだけの天国』をリリース。メジャーデビューも目前に迫っていた。
悲劇——ベース阿部浩之の急死
だが、バンドに突然の悲劇が降りかかる。
1990年1月26日、ベースの阿部浩之が交通事故で急死した。享年18歳。 雑誌の取材を受けて帰った後の出来事だった。
まさにメジャーデビューが決定した矢先の出来事だ。バンドは一時活動停止に追い込まれた。18歳のベーシストが突然いなくなる——どれほどの衝撃だったか、想像するだけで胸が痛い。
しかし彼らは止まらなかった。高校卒業後の1990年6月、ポリスターからミニアルバム『不思議なマジック』をリリース。歌詞カード裏面には阿部への感謝と弔いの言葉が記されていた(このアルバムのレコーディングは阿部存命中に行われている)。
その後、追悼曲「天までとどけ」と、復活の意をこめた「復活のうた」が作られ、セカンドアルバム『ふたつめのはじまり』に収録された。ベースは元A-JARIの太田守がサポートメンバーとして参加。「新メンバーを入れるぐらいなら解散する」というメンバーの意向で、最後まで太田が務めた。その姿勢が、このバンドの「仁義」というものだろう。
「ぞうきん」のヒットと武道館への道
1991年2月リリースのシングル**「ぞうきん」**がヒットし、BAKUは一躍人気バンドの仲間入りを果たした。
ドラマ仕立てのミュージックビデオも制作され、テレビでも広く露出。シングル「ピーターパン」ではミュージックステーションへの出演も果たした。
この年は活発な活動が続く。5月にアルバム『聞こえる 〜Power of Dreams〜』をオリコン3位でリリース、12月には『DAY AFTER』をオリコン10位でリリース。
そして1992年1月4日、念願の日本武道館ライブを実現させた。栃木のホコ天から武道館へ——結成からわずか3年足らずの、驚異的な軌跡だった。
変化と解散——「歌える歌」からの脱皮
だが、その武道館ライブを達成した後、バンドの内部では変化が起きていた。
最後のアルバム『DAY AFTER』では、初期の軽快なビートポップとは全く異なる音楽性が顔を出していた。政治的なメッセージを含んだとも取れる歌詞、破滅や死をも題材にした重い楽曲、唯一のインスト曲——ジャケットの衣装も初期とはまるで異なるものだった。
谷口宗一は後に「俺もやりたい音楽が見つかって、それが他のメンバーやスタッフと違っていた」と語っている。軽いノリで女の子ウケするビートポップバンドを続けることへのメンバーの不満、事務所やレコード会社との軋轢——様々な要因が重なり、解散が決定した。
1992年4月25日、日比谷野外音楽堂での解散発表ライブ(ラストツアー初日)の前、4月1日の日清パワーステーションでのイベントライブで車谷が「キレた!」のは有名な話だ(ヒストリービデオ下巻に収録されている)。
「バクは夢を食べ続けなければならない」——そのメッセージを残し、BAKUは1992年夏に解散した。
解散後それぞれの軌跡
解散後のメンバーたちも、それぞれの道を歩んだ。
車谷浩司はSpiral Lifeを経てAIRとして活動。そしてLaika Came Backへと続く音楽の旅を続けた。BAKUの「歌える歌」とは全く異なる、より実験的でオルタナティブな表現へと深化していった。
谷口宗一はソロ活動を開始し、写真家としても活動を続けた。
加藤英幸はアメリカへ音楽留学後、帰国してバンド・ユニット・サポートドラマーとして活動を続けた。
再評価——2011年の一斉配信リリース
2011年2月、BAKUの名作10タイトルが一斉に配信リリースされた(音楽ナタリーが「車谷浩司の原点、BAKUの名作10タイトル一斉配信リリース」として報じている)。
あれから20年以上が経った時点での再リリース。あの頃10代だったファンたちが30〜40代になっていた。そのタイミングで改めて届けられたBAKUの音楽は、懐かしさだけでなく「あの頃の自分」への眼差しとして響いたはずだ。
今改めてBAKUを聴く意味
30代・40代・50代になった今、改めてBAKUの音楽を聴くと、当時とは違うものが見えてくる。
あの軽快なビートと「歌える歌」の裏に、10代の真っ直ぐな衝動があった。ベースを失う悲劇を乗り越えながら武道館まで駆け抜け、しかし「続けることへの不満」を理由に自ら幕を引いた——その潔さもまた、あのバンドの「ロック」だったのかもしれない。
今すぐ聴くべき曲
🎵 ぞうきん(1991年)— 代表曲。軽快なビートと素朴な歌詞で一世を風靡した
🎵 ピーターパン(1990年)— ミュージックステーション出演を果たしたシングル
🎵 天までとどけ — 阿部浩之への追悼曲。このバンドの誠実さが詰まっている
🎵 復活のうた — 悲劇から立ち上がった意志の一曲
個人的には、これが好きだ。
おわりに
ホコ天から武道館へ。たった3年で駆け上がり、「バクは夢を食べ続けなければならない」と言って去っていったBAKU。
あのバンドを知っている人間には「懐かしい」だけじゃない何かがある。
そして知らない世代には、あの時代の熱気と誠実さを知るきっかけになる。
車谷浩司がBAKUで蒔いた種は、Spiral LifeやAIRへと続く音楽の旅の出発点でもあった。
お前にとってのBAKUのベスト曲は何だ?


コメント