THE YELLOW MONKEYを「ロックバンド」として語り直す時が来た【イエモン再評価論】

THE YELLOW MONKEYを「ロックバンド」として語り直す時が来た【イエモン再評価論】 FEATURE

よう、兄弟。THE YELLOW MONKEYを最後に聴いたのはいつだ?

「グラムロックでしょ」「ヴィジュアル系でしょ」——そう言って棚に戻していないか? だとしたら、お前はこのバンドの本質を見誤っている。

断言する。THE YELLOW MONKEYは、日本のロック史上最高のバンドの一つだ。

今日はそれを、事実と歴史で証明する。


THE YELLOW MONKEYとは何者か

THE YELLOW MONKEY(略称:イエモン)は、1988年に結成された日本のロックバンド。メンバーは4人。

  • 吉井和哉(ボーカル・ギター)
  • 菊地英昭(ギター)
  • 廣瀬洋一(ベース)
  • 菊地英二(ドラムス)

4人全員がかつてジャパニーズ・メタルバンドのメンバーだったという事実は、あまり知られていない。吉井はもともとベース担当だったが、ボーカルの松尾賢一が「音楽的な意見の食い違い」で脱退したため、吉井がボーカルに転向した。菊地英二の実兄・英昭が加入し、1989年12月28日に現メンバーで初めてのライブを行った。

バンド名の由来は、吉井が自分のイニシャル「Y」から始まる英語を辞書で探した際に見つけた言葉だ。東洋人への蔑称を逆手に取り、「ダサくてシニカルな名前にしたい」と考えて命名した——その反骨精神こそがこのバンドの本質だ。


活動の軌跡——武道館への長い道

デビューからの苦難(1992〜1994年)

1992年5月21日、シングル『Romantist Taste』で日本コロムビアよりメジャーデビュー。 しかし1stアルバムはチャート圏外、評判も芳しくなかった。

それでもライブの動員数は伸び続け、チケットは毎回完売だった。セールスと動員の乖離——「なんでライブはみんな虜になってくれるのに、音源に関してはそうならない?」と吉井は苦悩した。

1994年にリリースしたコンセプトアルバム『jaguar hard pain』では、吉井が主人公「ジャガー」になりきるため髪を丸坊主に刈り上げ、春・夏・冬の1年がかりで3本のツアーを展開。MCを廃する独自のステージを展開した。セールスは伸び悩んだが、動員数は上がり続け——翌年の日本武道館公演が決定した

ブレイクと全盛期(1995〜1997年)

1995年、ディレクターとの「10万枚で終わるか、オリコン1位を目指すのか」という話し合いで、バンドは「オリコン1位を目指す」という答えを出した。これが転換点だ。

5thシングル『Love Communication』がスマッシュヒット、4thアルバム『smile』がオリコンアルバムチャート初登場4位。そして1995年4月、初の日本武道館公演を即日完売で実現させた。

イギリスでレコーディングされた5thアルバム『FOUR SEASONS』はオリコン初登場1位を記録。バンドの人気は確固たるものになった。

1996年には9thシングル『JAM/Tactics』が累計60万枚、10thシングル『SPARK』が累計55万枚を超えるヒット。特に「JAM」は阪神・淡路大震災への眼差しを持った曲として今も語り継がれている。

ファンハウスへの移籍後、6thアルバム『SICKS』を制作。吉井が「自分の中で音楽がものすごく噴出している」と表現したほどの創作の爆発で、300曲を作り80曲に絞り込んだ。吉井自身が最高傑作と自負する作品であり、オリコン初登場1位・オリジナルアルバム自身最高の売上を記録した。

1997年には「ARENA TOUR ’97 “FIX THE SICKS”」で20公演・トータル15万人を動員。スタジアムツアーでは4万人近いキャパシティを軒並みソールドアウトにした。

PUNCH DRUNKARDと過労の時代(1998〜2000年)

7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』はオリコン初登場1位を記録したが、この頃から吉井はスランプに陥り始める。「今まで上昇していたバンドが下降し始めた感じ」を実感していた。

同アルバムのツアー「PUNCH DRUNKARD TOUR 1998/99」はホール72本・アリーナ41本・計113本、3日に1回のペースで1年間行う過酷な日程だった。延べ55万人を動員し、経済効果はグッズ・チケット・CD合わせて100億円以上とも言われた。しかし吉井は過労で倒れ、音響スタッフが「奈落」に落下して死亡するという事故も発生した。

活動休止と解散(2001〜2004年)

2001年1月8日、初の東京ドーム公演「メカラ ウロコ・8」を実施し、活動を休止。 吉井は「とにかくこれをやったら終われる。やっと休める」という気持ちだったと語っている。

2004年7月7日、正式に解散を発表。 吉井は「解散は僕の我儘で、僕の責任」と語った。

デビューから解散まで、CDのシングル・アルバム合計の総売上枚数は1,000万枚以上


2016年再集結——「ただいま」

2016年1月8日午前0時、公式サイトにて再集結を発表。 申年というタイミングも話題になった。各種スポーツ新聞で号外が配られ、「イエモン、サル年に復活」が多くの誌面を飾った。

再集結後初のライブでは、解散前に発売されながら唯一コンサート未披露だった楽曲「プライマル。」を1曲目に披露。吉井は「ただいま!」「このTHE YELLOW MONKEYは生涯解散することはありません」と宣言した。

同年12月31日には「NHK紅白歌合戦」に初出場。「JAM」を披露した。

2019年以降——新作と闘病と復活

2019年、19年ぶりのオリジナルアルバム『9999』を発売。 同年末〜2020年にはバンド史上初の3大ドームツアーを予定していたが、新型コロナウイルスの影響で東京ドーム2daysが中止に。

2023年10月、吉井が約2年間にわたる喉頭癌の治療を公表。 癌は根治しているとしつつ、完全復活に向けて歩みを止めないことを宣言した。

2024年4月27日、約3年半ぶりの有観客ライブとして東京ドーム公演「SHINE ON」を開催。 吉井は「我がTHE YELLOW MONKEYは永久に不滅です」と力強く宣言した。

2024年5月29日、5年ぶり10枚目のアルバム『Sparkle X』を発売。 秋からは約26年ぶりとなる全国ホールツアー「THE YELLOW MONKEY TOUR 2024/25 ~Sparkleの惑星X」を30公演行った。


吉井和哉という表現者

吉井はデヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソン、T.Rexなどグラムロック系アーティストから強い影響を受けており、バンド初期はグラムロック色が強かった。しかし、メジャーデビュー後はその枠を大きく超えた。

吉井の歌詞世界は、退廃と生への渇望が同居する独特の美学を持っている。「JAM」のような社会への眼差し、「LOVE LOVE SHOW」のポップな色気、「球根」のような繊細な感情——その振れ幅の広さこそが吉井和哉の真骨頂だ。

桑田佳祐(サザンオールスターズ)は「直球勝負ならイエローモンキーには勝てない」と語った。エアロスミスのスティーヴン・タイラーは「すごくシンプルなのに、繊細なフィーリングが込められている」とシングル「球根」を絶賛。KISSのジーン・シモンズはTHE YELLOW MONKEYのアルバムや映像作品を所持していた——そんな国際的な評価を受けながら、彼らは常に「日本のロック」を貫いた。


なぜ「ロックバンド」として語り直すべきか

グラムロックの衣装、派手なメイク——その見た目だけでこのバンドを「ヴィジュアル系」と片付けた人間は、本質を見誤っている。

彼らが本当にやっていたのは、ロックの正道だ。デビュー当初のセールス不振にも屈せず、ライブで積み上げた信頼。「10万枚で終わるか、オリコン1位を目指すか」という岐路での決断。113本のツアーを完走した体力と意志。「PUNCH DRUNKARD TOUR は失敗だった」と宣言し、後半から方針転換した潔さ。そして吉井の「解散は僕の我儘」という責任の取り方。

全てがロックバンドの物語だ。

そして今、吉井の喉頭癌闘病を乗り越えて、東京ドームで「永久に不滅です」と叫んだあの瞬間。あれを見て「ロックバンド」と呼ばずして何と呼ぶ。


今すぐ聴くべき5曲

🎵 JAM(1996年)— 日本のロック史に刻まれた一曲。阪神・淡路大震災の年にリリース。累計60万枚

🎵 SPARK(1996年)— リフ一発で全てが分かる。ロックバンドとしての本質がここにある

🎵 BURN(1997年)— シングル最大ヒット。45万枚以上のセールス。ライブでの爆発力は別格

🎵 バラ色の日々(1999年)— 1999年12月28日の武道館ライブで初披露された名曲

🎵 ホテルニュートリノ(2024年)— 闘病を経て生まれた最新曲。今のイエモンを聴け


おわりに

1988年結成から2024年の最新アルバムまで——THE YELLOW MONKEYは止まっていない。

吉井和哉の喉頭癌という試練を乗り越え、東京ドームで「永久に不滅です」と叫んだあのバンドを、グラムロックやヴィジュアル系という言葉で片付けるのはもう終わりにしよう。

彼らは純粋に、ロックバンドだ。

お前にとってのTHE YELLOW MONKEYのベスト曲は何だ?

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